アメリカン・サイコ(映画)【感想】

アメリカン・サイコ(映画)(2000; メアリー・ハロン

※ネタバレあり

有名な名刺バトルのシーンは知っていたけども、あまり見る気が起きずこれまで全編見たことはなかった。YouTubeかなんかで触れられていて、内容が気になったのでこの機に視聴。

 

全編通して、クリスチャン・ベールの演技がよかった。エリート階級の虚しさとベイトマンの狂気をしっかりと演じ切ってくれた。

名刺バトルも見ものだし、鍛え抜かれた肉体美から繰り出される全裸チェーンソーアタックも印象的な絵面だ。

一方で内容的には、そこまで惹かれなかった。特に中盤からはあまり面白いと思って見れていない。

こういう精神病的な作品は、どこからが妄想でどこからが現実かわからない……みたいなオチになりがちだ。もはや信頼できない語り手という手段は陳腐化していて、それ自体は魅力にならないと改めて感じた。

2000年の映画だから、当時はあまり陳腐化が進んでいなかったのかもしれない。とはいえ、殺人衝動を「サイコ」という枠組みに押し込めて説明し、掘り下げない路線をとった以上、一体この作品で掘り下げられ、表現されているもの――魅力あるテーマとは何だろうか。

エリート階級の虚栄がそうだというのであれば、それは前半~中盤で達成している。 もう少し掘り下げて、この映画で強調されている「他者への無関心」がテーマといえるだろうか。他者への無関心が、ベイトマンをここまで野放しにし、彼から罰を奪っている。

イトマンの周囲にある人間関係を思い返してみる。あたかも互いが気ごころしれた仲間であるかのように演出しているが、実際には表面上のつながりだけで、名前も顔も正確には一致していない。そういう形式的な関係性は"ビジネス"的な社会に蔓延していて、その渦中に置かれているという状況は現代社会の多くの人にも当てはまるある程度自然なことなのだけれども、ベイトマンの場合はさらにそれが男性優位主義的価値観を伴う形で、プライベートにも浸食している。その関係の中でいかにプレゼンスを高めるか、そういう部分が人生の追求の中核を為してしまっている。

こういった表面的な関係性に目を奪われるという事象は、何もベイトマンだけに限ったことでなく、現実社会のエリート層にすでに蔓延しているのである。その指摘とコミカルな批判が、名刺バトルのシーンが代表するように、この映画にはこめられている。そして、無限にうわべだけを追っていくようなその関係のうちにある、結局のところ何も見えていない、目の前の人が誰なのか、何をしているのかもわかっていないという不気味さ。それを人の形で表現したのがベイトマンというキャラクターといえるだろうか。

だからこそ、ベイトマンという人物の内面は、複雑な過去をもち葛藤を抱える個人というよりも、殺人衝動を抑えられないシンプルでそれ以上説明できない「サイコ」である必要があった。だれか特殊な背景を持った人が抱える闇ではなく、あなたの周りの誰しもがひっそりと抱えうる、天災的で病的な精神状態でなくてはならなかった。

こういう背景もあって、ベイトマンの異常性の深堀を期待していた私にとっては、全体の内容がやや肩透かしのようになってしまった節がある。

だけども、こうやって社会批判として位置づけてみると、面白いのかな……?と思えてきた。どちらにせよ、映画鑑賞直後に実感として感じられる面白さではないのだけれども。

構成としてみるならば、中盤以降のダレ感はミッドポイントの不明瞭さにあると思われる。

第一幕については、FTPとしてポールアレンの殺害、第二幕前半としては解決すべき課題として探偵の来訪と、この辺りまでは比較的明確に映画の方向性や乗り越えるべき課題が鑑賞者に明示されていた(三幕構成的にはちょっとテンポが遅い気はするけれども)。

しかしそれ以降は、じりじりと殺人衝動と探偵に追い詰められていくようなシーンが続き、流れが大きく変わるのが65分ごろ、探偵からの疑いが晴れるシーンだ。これをMPと考えると、タイミングがかなり遅い。しかもそのあともやってることが結局殺人であんまり変わらない!

実際これは、主人公の心情と起こっていることの展開のペースが一致していないためかと思われる。心情ベースとしては、確かに45分ごろに遂に猟奇殺人鬼の話を同僚にし始めるなど、狂気を内に抑えられなくなったことが示されているので、心情としてのMPはちゃんとあるべき位置にありますよ――と言い訳をできなくもない。

ただMPの役割は、これまでの物語の方向性に飽きてきた観客に新しい方向性や目標を提示して、物語への興味を持続させドラマを生み出すことなのだから、この映画はMPの機能が弱く(結局やることは「人に隠れて殺人する」で変わらず、新たな目標も特にない)、ゆえに中盤以降にダレ感が生じたのだと考えられる。

 

と、感想ベースの分析はそこそこにして、総評としては、他人に熱心には勧めない映画(見たい人に聞かれれば「面白かったよ」と伝える程度)だった。とはいえ全裸チェーンソーからの「そうはならんやろ」のシーンは一見の価値があると思うので、名刺バトルが気になる方はぜひこの機に見ていただきたい。

 

 

「ついやってしまう」体験のつくりかた【感想】

「ついやってしまう」体験のつくりかた 人を動かす「直感・驚き・物語」のしくみ(2019; 玉樹真一郎)

感想の概要 ★★★★☆

分析としては、ハウツー本にありがちな、大きな理論ですべてを説明しようとしすぎているきらいがある点が気になった。

一方で実用的な部分で見れば、プロダクト・体験のデザインで重要なことを見事に指摘しており、そういった「仕掛け」を扱う職業の人々には有用だろうと感じる。

総合的には十分有用であり、重要な気付きを含むため、ぜひ他人に勧めたい。

本文

きっかけは職場の先輩からの勧め。以前から任天堂プログラマーが書いたアフォーダンス関連の本があるという話は聞いていたため、この機に読んでみることにした。

第一章「直観のデザイン」では、「仮説を立て、試行し、予想が当たるという体験が面白さにつながる」ということを中核に据え、如何にしてユーザーに仮説を立ててもらうか、ということについて語られている。

非常に的確だと感じた部分は、「余計な要素を廃し、シンプルにすべきである」という主張だ。複雑すぎるデザインはせっかく仕込んだアフォーダンスを目立たなくしてしまうことに加えて、仮説を立てることを困難にしてしまい、ユーザーを仮説立案から逃避させてしまう

この指摘は心理学のいくつかの理論と似ている。例えばフロー理論では、人はちょうど良い(努力すれば超えられるような)課題に挑んでいるときが最も没頭でき、楽しさを感じる、というようなことを言っている(はず)。

また感性心理学にもInverted-U Theoryと呼ばれる理論があり、こちらも「ちょうどよい複雑さを持った図形は美しく感じられる」というようなことをいっている。

www.sciencedirect.com

en.wikipedia.org

これらの理論の共通点は、複雑/困難すぎる対象については、ネガティブな印象を抱いたり、挑戦しようとすら思わないということである。

これらの知見に照らしても、「仮説立案→試行」という主体的な取り組みを行ってもらうためには、「考えたら/試したらわかりそう」だとユーザーに思ってもらうことが必要だ。特にユーザーを未知の環境に呼び込む「ゲーム」という媒体においては、ゲーム開始時ユーザーはすでに、右も左もゴールもわからないという、かなり複雑性の高い状況に置かれている。だからこそ、できるかぎり複雑性のハードルを下げるため、不要なものを廃してシンプルさを追求せよ、という筆者の主張は的を射ていると感じる。

 

またこの章でひとつ面白いと思った主張が、仮説立案に知識を必要とするものは、「自分は賢い」というポジティブな感情を喚起する、という主張である。

本書で例として挙げられているのは、木の棒、火のついた燭台、道をふさぐ蜘蛛の巣という三つのオブジェクトが配されたマップである。蜘蛛の巣が燃えることは以前のステージで提示済みという状況。ユーザーは木の棒に燭台から火を移し、蜘蛛の巣に近づけることでこれを焼き払えば、このマップをクリアできる。

一見簡単な謎解きだが、この一連の行動には、「木には火が付く」という前提が隠れており、これはゲーム中で提示されていない。ゲームの範囲外にあるユーザーの知識を必要とするものであり、これが「俺は賢い」という自己肯定につながる。

特に、この知識が常識的なものであるという点がミソだと感じた。

先に述べた通り、心理学的には、ハードルは低すぎても好ましくない。ある程度の難度がなければ、退屈で達成感のない体験になってしまう。そのため、一定程度ゲームを難しくはしたいのだが、それでは振り落とされる人が出てしまう。

そこで常識的知識を利用した謎が役に立つ。常識なればこそ実際にはだれでも解けるものなのだが、ゲーム中にヒントが提示されていないため、より困難な謎に見える。「誰にでも楽しんでもらいたい」と「楽しさのためにある程度難しくしたい」という要求を同時に達成できるうまい手だ。

これはユーザーの知識を信じるということでもある。物語においても、ある程度読者の知識を信頼し、この「ユーザーの知識を利用する」という戦略を利用すれば、読者に知的な楽しみを与えられるだろう。

 

さて第二章は「驚きのデザイン」で、要は「ずっと仮説→試行ループを繰り返すとユーザーが疲れちゃうから息抜きになる楽しみを用意しようね」という話だと思うのだが……ちょっとここは無理に一つの理論にまとめすぎていると感じた。

射幸心やセクシー、暴力、ユーザーのプライベートなどを「現実/シリアスな流れからの逸脱による驚き」とし、「仮説→試行ループによる疲れと飽きを癒すもの」としているのだけれど……無理に「驚き」に統合して説明しようとしているからどうしても説得力を欠く。

それぞれの持つ息抜きとしての機能と、それ以外の楽しさにつながる機能(超刺激的な要素等)は分けて考えたほうが、応用の利くものになると感じた。

この章では「タブー」と呼ばれる驚きをもたらす諸要素が10個挙げられているが、それらはもはや使い古されたものがほとんどだ。ただ、タブーの10「ユーザーのプライベートに関すること」は新鮮だった。「その体験は、性格がでるか?」という問いかけは、経験的に一定の説得力がある。確かに、自分のプライベートな部分に触れる・プライベートな趣味や思想が発露するものは、自己解放的な側面もあって、楽しさにつながることもあるだろう。

 

第三章も前章と同じ問題を抱えており、今回は「ユーザーの成長」に無理にまとめすぎてはいまいか、と感じた。

各論的に言えば、「1. 穴・欠落を見せることでユーザーを動機づける」「2. リスク・リターンの異なる選択肢を用意し、ユーザー自身で難度を調整できるようにする」「3. 面倒な同行者を利用して主人公への共感を高める」と、それぞれ有用なテクニックだと感じたが、これらが楽しさにつながるのは別に自分が成長したからではないだろう。ポケモンの図鑑埋めは確かに楽しいし達成感もあるが、別に「俺成長したな~」とは思わない。

1は課題をユーザーに提示して自発的に動いてもらうための方法論だ。2は自ら難度調整してもらうことで、フロー理論的にいう「ちょうどよい難度」を実現するための方法で、どちらかといえば第一章の内容に近い。第三章に至っては、物語におけるかなり具体的・限定的なテクニックで、ここだけ内容が具体的すぎて粒度があっていないと感じた。(そもそも「苛立つ味方」のテクニックは極めて扱いが難しいのだが、そのもろ刃の刃的側面には触れられていなかったのも気になった)

この後続く実践編についても似たような状態であり、各論的には非常に役に立つのだけど、まとめ方がいびつで応用が難しくなってしまっている。この点、非常にもったいないと感じた。

 

この通り、普段分析的な考え方(問題のまとめかたや切り分け方を気にする考え方)をするタイプの人間なので、気になる点は多かったが、とはいえ突っ込みを入れながら楽しく読むことができた。

各論的には非常に役立つことを言っているとも感じたので、この本が役立つ人は多いだろう。実用的で、読んでよかったと感じられる本だった。

 

余談

こういったハウツー本の類を読むときは、必ず著者の紹介文を確認することにしている。学術的な内容については著者の学位が、実践的な内容についてはその実践に関する経歴が、信憑性のバロメーターとなるためだ。

さて今回でいえば、実践的な内容が主なのだが、著者がWiiの開発にかかわっていたという主張が怪しげだ。「かかわる」という言葉は便利なもので、単に指示のままコードを打ち込むだけだとしても、「開発にかかわっていた」と言って嘘にはならない。そういうごまかしではなくて、しっかりとクリエイティブな部分に影響力を持つような形で開発にかかわっていたか。そうでないと、信憑性を欠く。

そういう疑いの目で著者紹介を読んでみると、「Wiiエバンジェリスト(伝道師)」などと胡散臭い二つ名が並んでいるのだ。一気に雲行きが怪しくなる。たいていこういうよくわからない二つ名は、まっとうな学位や経歴がないのを胡麻化すのに使うものだ。メンタリストとか、ナチュラル健康アドバイザーとか。

そうして半ばあきらめながら著者氏名で検索したところ、なんと下の記事がヒットした。任天堂公式のページである。

どうやら、開発の中枢にいたことは間違いなさそうである。それなら信憑性もぐんと増すじゃないか! それをどうして、わざわざこんなに胡散臭い紹介にしたのだろう? もっとほかの実績を並べてもいいとは思うが……

まあ、紹介文は編集者側が作っているのだろうし、こういうエバンジェリスト的紹介文のほうが受けがいいのだろう。エバンジェリスト……

www.nintendo.co.jp

ルックバック【構造分析】

ルックバック(2021; 藤本タツキ

※ネタバレあり

 

好きな漫画だけれど、内容面で感想を書くのが非常に難しい。「振り返る」「背中を見る」というモチーフをきちんと追い切れていない感じがある。なのでこの記事では構造分析をメインにしたい。

 

【天才と秀才系】の成長譚と考えると全体の構造が捉えやすいか。

基本構造は三幕に則っており、特にMP(京本との別れ)はちょうど半分あたりに配置されている。

ただ二幕前半がV字型になっているのが特徴的で、全体的にはWっぽい展開になっているように読めた。

また全体尺の都合だろうか、二幕前半のさらに前半、下り坂部分には課題解決等の分かりやすいイベントがなく、(転機となった周囲の発言はあるものの)さらりと流れるように終わっている。続く二幕前半の上り坂(京本との対面以降)も、苦戦する様子などはなくとんとん拍子で進んでいく。変化や様子はセリフのないコマで描写し、そのコマをアルバムのように並べてどんどんと時をすすめていくのは、視覚表現媒体ならではの技だろう。シーン化されて時の流れが遅くなるのは、一部の会話シーンだけだ。

また個人的には、二幕前半で(単に上昇あるいは下降させるのではなく)V字型を作るという手法が勉強になった。使いどころは選ぶべきだけれど、イベント不足で二幕前半が単調になる恐れがある場合は有効な手段だと思う。

使いどころが限られるといったのは、狭小邸宅の感想でも述べたところだが、二幕前半で下げていく技法はメリットが薄いと考えているからだ。

例えば今回でいうと、努力を始めた藤野がめきめきと画力をあげ、京本に認められて、タッグを組むことになる──という流れも可能だったはず。それをしなかったのはテーマの表現上の理由が大きかろうが、短編の都合上イベントを仕込みにくく会話劇が中心になることや、そのような状況で上昇だけが続くと単調になりすぎることが挙げられるかもしれない。

一方で二幕後半以降は見せ場ということもあり、BS2に忠実な作りになっていたと思う。迫りくる悪い奴ら(孤独な生活)、全てを失って(京本の死)、心の暗闇(京本の家を訪れる)という感じか。

 

つくづく実感したのは、漫画は視覚表現ということもあって、動きが少なくてもシーンとして成立させやすいのかもしれない。一方小説は動きがないと分量が出てこないので、シーン化させにくい。ひたすら藤野が孤独に漫画を描くシーンは、文章で表現する場合動きを増やして上手くやらないと単なる情景描写で終わってしまいかねない。やはり今後も、文章作品の時間経過の扱いにを万で行きたいところだ。

また今回は触れなかったが、今後もう少しサンプルが得られれば、天才と秀才系の定型についても考えていきたいところである。

具体的描写前の視点定義【描写】

三人称をとるような描写をする場合、描写がどのレンズを通したものなのか(すなわち、客観的な語り手による描写なのか、主人公の見ている光景なのか)曖昧になりがちだ。それが三人称の利点でもある。

ただ最近思うのは、このレンズをうまく調整するだけで、描写全体のイメージを変えられるのではないか、ということだ。客観的な描写だと俯瞰のイメージがあり、主人公の視点だとより臨場感というか、追体験のように感情が付随するイメージがある(かなり感覚的な話で申し訳ない)。

 

さて、そのレンズの調整に、具体的描写前の一文が使えるのではないか、というのがこの記事で書きたいことだ。

特に出来事を描写するとき、具体的で長い描写の前に、端的に状況や描写対象を表す一文を置くことがある。そうすることで、これから何を描写するのかを明確にすることができる。

その一文を客観的、主人公の動作を伴わないようなものにすることで、続く具体的描写も俯瞰のレンズで描かれているように読めるのではなかろうか。反対に主人公視点、主観や知覚動詞を伴った表現にすると、続く具体的描写は主人公の視点を通して読めるのではなかろうか。

というわけで、具体例を下に並べてみた。

具体例

客観

誰もが壊れゆく空を眺めていた。

北天に現れた小さな綻びは、触手のようにいくつものひびを伸ばしていく。晴天の青も漂う雲の白も区別なしに、プラネタリウムが崩れゆくように、ひびは縦横無尽に広がって、きらめく破片をまき散らしている。不規則に大きな衝突音が響いていて、その後には決まって人々の叫び声が続いた。

彼は立ち尽くしたまま、その空を、遠くに立ち上る粉塵を眺めていた。恐怖に紛れて、不可思議な興奮が体をくすぐるのを感じた。

俯瞰カメラからぎゅっと主人公に寄っていくイメージ。主人公(やこの光景を見ているキャラクター)の紹介をこれから始めたいときなどはこっちが有用?

 

主観

立ち尽くしたまま、壊れていく空を、遠くに立ち上る粉塵を眺める。恐ろしい光景だった。

北天に現れた小さな綻びは、触手のようにいくつものひびを伸ばしていた。晴天の青も漂う雲の白も区別なしに、プラネタリウムが崩れゆくように、ひびは縦横無尽に広がって、きらめく破片をまき散らしている。不規則に大きな衝突音が響いていて、その後には決まって人々の叫び声が続いた。

恐怖に紛れて、不可思議な興奮が体をくすぐるのを感じた。

一人称の語りのような臨場感がある気がする。一貫して主人公の見ているものが描かれているから、〆で主人公の感情に移行するのが自然。カメラは主人公から始まり、見ているものに移り、また戻ってくるイメージ。主人公の内面描写や感情的な共感を得たいときはこっちが有用?

狭小邸宅【感想】

狭小邸宅(2013; 新庄 耕)

※ネタバレあり

 

不動産会社に勤める営業マンを通して、上手く人間のあり様を描いていると感じた。

「きちんと考えもせずに生きているくせ、何となく自分が特別だと思っている人間」という指摘がぶっ刺さる人は、たくさんいるんじゃないだろうか。かくいう私も、できれば自分の潜むこの傲慢な幻想は暴かれたくないものである。

不動産営業のディティールをしっかりと描きつつ、興味深いのは、実際不動産営業マンに関する情報がてんこ盛り、というわけではないことだ。ディティールを数で稼ぐのではない。代わりに、不動産に関する解説であったり、「サンドイッチマン」「殺す」であったりと、ディティールの詰まっている部分、用語やジャーゴンがしっかり強調され、展開に活用されている。ゆえにしっかりと印象に残り、小説全体に知的な興味深さとオリジナリティを与えている。

台詞もいいものが多かった。「おい、お前、今人生考えてたろ」のくだりは序盤でありながら鮮烈に記憶に残っている。

ラスト、額に脂汗を滲ませる主人公の引き攣った笑顔が、窓を流れていく風景が、ありありと眼前に浮かぶ。まるで映像を見たかのように思い出される。もうアクセルを踏み込むしかないのだ。行くところまで行くしか、転がっていくしかない。

エンタメとしての後味はあまりよくないけれど、自分は結構好きな作品だった。

 

展開についていえば、理論上存在するといわれていた谷型三幕で興奮した。第二幕前半まで下り調子で絶望に至り、MPで一気に事態が好転、第二幕後半ではその好調が続く。そして第三幕は──ハッピーエンドも、そうでないものも、どちらもあり得る。

そもそも谷型三幕が珍しいのは、エンタメとしての難度にある。

主人公と読者の絆がきちんと築かれていない序盤、ひたすら転がり落ちていく主人公を見るのはつらいだけだ。手に汗握って応援する気にもなかなかなれない。陰鬱な気持ちになって、これ以上見る気も失せてしまう。

一方で二幕後半を上り調子にすると、クライマックス直前の緊張が演出しにくく、ハッピーエンドを目指すのならカタルシスを生み出すのが困難になる。

さて、これらの点をこの作品はどう解決しているだろうか?

まず下り調子の主人公なんて見てられないものだが、本作は二幕前半のサブプロット(恋の進展)を上り調子にすることで、全体のバランスを取っている。「仕事はつらいが家に帰ったら幸せが待っている」という状況をちゃんと構成として作っているから、読者は恋の進展を期待して物語を読み進めることができる。そしてその布石として、第一幕で主人公は後輩に手を差し伸べて読者の好感度をあげているのだ。StC!

そして三幕のカタルシスについては、ない。なぜならハッピーエンドではないから。高度に商業化されたエンタメ映画でないから許される所業である。

 

そのほかに勉強になった点として、第二幕後半が主人公の成長にあてられている点をあげたい。

第二幕後半、MPの偶然ともいえる成功を通して主人公は「きっかけ」あるいは「良い流れ」を掴み、その後に自らを省みて努力し、成長するという過程を辿っている。

そしてこの成長の途中に絶望はない。とんとん拍子で成長が進み、契約も獲得できるようになっていく。こんなことは、成長ストロークの原則に反している。なぜこれが許されるのだろうか?

それはおそらく、MP時点で成長ストローク自体が既に終了しているからだろう。

成長ストロークの本質的な部分は、絶望・葛藤し、決意し、自分の弱点を乗り越えることである。具体的なスキルの獲得は含まれない。本作のMP直前に起こっていることを成長ストロークにざっくる当てはめると、以下のようになる。

  1. 課長から弱点の指摘(契機)
  2. もう辞めろといわれ、実際に辞めようかというところまで追いつめられる(絶望と葛藤)
  3. 飲み会でまだ会社にいくことを決意(決意)
  4. 現実を舐めず、本気で営業に取り組む(弱点の克服)

つまり、MP時点で成長ストロークは既に完走しているのだ。第二幕後半はあくまで成長のエピローグ的に、その精神的な成熟を、具体的なスキル(象徴)に落とし込むこと、そして成長を実感させるイベントを発生させることに費やされている。

なるほどこういうやり方があるかと感服した。どうせ下るのだから第二幕前半で成長ストロークを完走してしまうというのは盲点だった。

とはいえ、真のクライマックスはこのあとにあるのだから、この手法を使うならばこの成長はあくまで仮初めのものでなくてはいけないのだろう。ハッピーエンドにせよ、そうでないにせよ、どうせ一度は落とさねばなるまい。だからここで得られるのは真の成長ではない。

本作も主人公は仮初めの成長に溺れて、プライベートで道を踏み外す。それと同時に、仕事でも落とし穴にはまる。もしかすると、ここから這い上がる展開もあるかもしれないが、この作品はここで終わりだ。

 

最後に、この作者の場面遷移の方法がかなり力強いと感じたので書き留めておきたい。冒頭を引用する。

 湯気が立ち、鏡が白く曇る。頭からシャワーをかぶり [中略] シャワーの音にかき消された。

 テレビの画面に映る朝の情報番組では [中略] 見知らぬ遠い町のように感じられてくる。

 外は、まだ肌寒かった。それでも [後略]

 

この豪胆さを見よ! 単に形式段落を変えるだけで、風呂⇒リビング⇒外と場面が遷移している。「移動した」という宣言だけでなく、その間にある朝の支度のあれこれもすべてかっ飛ばし、地の文に書いてすらいない。

だが意外とこれがスッと入ってくる。風呂でテレビはあまりみないから、テレビが登場するだけで移動したということがわかる。「外は」と書くことで、移動したことを暗に示す。いちいち移動したと書く必要なんてないのだ。

私は場面遷移や時間遷移が結構苦手なので、この手法はかなり参考になった。ただ途中これのせいで読みにくいところもあったので、慎重に使わなければいけない手法だとも思う。

よく使う略称・用語一覧

テキトーな略称や独自用語をよく使うのでここにあらかじめまとめておく。

BS2

ブレイク・スナイダー(BS)のビート・シート(BS)。

『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』(フィルムアート社)で紹介されているストーリー構成の型で、三幕構成を成長譚に特化して具体化したものといえる。この世の大抵の物語は成長譚なので、かなり使いやすい。

StC(STC)

『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』(フィルムアート社)で紹介されているSave the Catの法則のこと。あるいはこの書籍自体、あるいはここで紹介されているBS2のこと。

基本的にはSave the Catの法則自体を指して用いるようにはしている。つまり「猫かなんかを救出させて主人公の好感度を早いとこあげておく」手法のことである。

ストローク

一連の出来事の流れ(まとまり)を指す。

いくつかの流れはパターン化することができ、一定の法則がある。例えば、成長を達成するためのストロークは、きっかけ ⇒ 葛藤 ⇒ 絶望 ⇒ 覚悟の四つの出来事を含むことが多い。

成長ストローク(Gs)

成長を達成するための一連の流れ(あるいはその一部)のこと。

課題解決ストロークPSs

何らかの課題を解決するまでの一連の流れ(あるいはその一部)のこと。

ラリー

課題解決ストロークやアクションストロークで発生する応酬(均衡や緊張を変化させ得る行動)と、その数。

例えば、相手の攻撃 ⇒ 攻撃を回避するというストロークは、2本のラリーを含んでいる。

転換点・マイクロターニングポイント(MTP)

アクションストロークや課題解決ストロークで、状況が悪化・改善するきっかけとなる出来事や行動。

特に改善するものはpMTP、悪化させるものはnMTP、流れを断ち切るものはcMTPと呼ぶことにする。

キングスマン【感想】

キングスマン(2014; 原題:Kingsman: The Secret Service

※ネタバレあり

 

「これが俺の好きなスパイ映画だ!」「俺のサイコーのアクションを見よ!」という気概を感じる映画で大変面白かった。埋め込みチップによる最悪の花火のシーンを今後忘れることはないだろう。

スパイ映画へのアンサーとしてのスパイ映画、という側面があるので、色々とスパイ映画を見ていればより楽しめるかもしれない。一応自分もスパイ映画は数作見たことがあったので、この点に The Cabin in the Woods (2012) にも似た面白さを感じることができた。

内容的にはかなりピーキーな作りともいえよう。アクションを映えさせ、スパイをカッコよく見せるために、筋立ての合理性はかなり犠牲になっている(風船で大気圏を目指すな)。テーマはないわけではないものの、幹というよりむしろ全体の形を整える添え木に近い。「成長の感動や高尚なテーマ性というのは一旦横においておいて……スパイアクションで魅せるんじゃい!」という心意気の表れだろう。

 

構成的には三幕構成──というより、BS2にかなり忠実な作品だと感じた。特に第一幕でしっかりStCを決めてきた(CatではなくFoxだったけど)のには、あまりに優等生すぎてくすりと笑ってしまった。逆に逸脱しているのは、①第一幕がやや長い点と、②第二幕後半が短めな点か。

①について、第一幕はオープニング(過去編)に加えて、キングスマン側の活動紹介と主人公の生活の紹介を両方済ませてしまう必要があり、内容だけ見れば情報の濁流になりかねないものだった。そこで視聴者を退屈させないために、アクションシーンをかなり多めに仕込んだ(プール教皇理論)結果、やや長めになったのだと勝手に予想する。

②について、第二幕後半は主に主人公の成長が描かれるフェイズなわけだが、そもそもこの映画、先に述べた通り主人公があんまり成長していない──というかそもそも最初からある程度完成している。主人公の悪癖といえば自分の不幸を他人のせいにしていたというくらいで、それもまああの家庭環境なら仕方ないところがあるだろう。すぐ非行に走るという弱点が一応象徴として用いられているが、これもそこまで強調されているわけではない。

一応内容的な面に着目してMP~2TPを書き出すと、以下のようになるだろう。

  1. MP(失格からの追放)
  2. 迫りくる悪い奴ら(進むVの計画、車を盗んで義父のもとへ)
  3. 全てを失って(教会の事件)
  4. 心の暗闇(アーサーの勧誘)
  5. 2TP(勧誘拒否と作戦開始)

この中でまともに課題解決ストロークが生じているのは4~5だけで、しかもこのストローク中のラリーは最低限の2本しかない(一応「変な味」の伏線を使って確実にこのラリーを決めに来てはいる)。2は一瞬で終わるし、3は主人公の関与しないアクションシーンだ。この映画で第二幕後半は成長というより「戦う覚悟をより固める(そもそも戦う気だった)」程度の意味合いしかない。

だからこそ、通常2TP直前に設けられる展開的な面白みは第三幕に預けられている。

第三幕は各課題(脱出せよ! / 生体認証を阻止せよ!)のラリー数も(正確には数えていないけど)多めだ。最大の危機と絶望は成長関係なく単に両サイドから大量の敵に挟み撃ちにされたから発生しているし、その解決策は序盤の伏線を回収するという形で説得力を確保している。

SB2は成長譚を念頭に作られているから、たまたま「心の暗闇」と「最大のピンチ」が一致しているが、実際これが一致するとは限らないという好例だろう。SB2の第二幕後半はあくまで、次の二つのルールを最高効率で達成するための手法と言える。

  1. 緊張と興奮管理の観点から、最大のピンチは最終決戦の直前(クライマックス)におかれなければいけない。
  2. 成長ストロークの観点から、成長と変化の前には絶望や最後の誘惑(葛藤)がなければいけない。

だが、必ずしもこの2つを一致させる必要はないし、この映画は実際それを分離して見せている。

 

ほか気になった点としては、「○○し続ける」系のラリー数がある。

線路に縛り付けられるシーンでは、「断り続ける」ことがアクションになっているのだが、ここのラリー数は6本(つまり、3回断っている)だった。一方犬を撃つか迷い続けるシーンは、大体10本(銃 ⇔ 犬の顔のラリー)だ。

後者はセリフなしに画だけで語っていることに留意するとして、実際小説でやるならば6ラリーくらいが緊張感を高めるのにちょうどいいだろうか。

そもそも「ひたすら○○し続ける」というシチュエーション自体が小説にあまり向かない気がする。映像作品では「時間ギリギリ」が視覚情報で直感できるが、小説ではそうはいかない。今後は、こういった「制限時間ギリギリまで頑張る」ことが解決になる課題解決ストロークが小説で利用されることがあるのか、利用されるならどのように描かれるのか、「迫る制限時間」をどのように表現すれば効果的に緊張感を高めることに繋がるかを意識しながら物語を読んでいきたい。

また、訓練の様子や絆の形成を短いショットの連続でさらっと流しているのもかなり映画ならではの表現だと感じた。小説でも似たようなことができれば便利だと思うので、今後可能かどうかを検討していきたい。

今回の中で、以下の展開は応用・定型化可能だと感じたのでメモとして残しておく。これらについては今後もう少し考えたうえで、個別のページでまとめたい。

  • みせかけの敗北
  • バックグラウンド
  • だましうち
  • 相手のツール
  • 多数の内の残りの武器
  • 危機明示よりも先んじて
  • 制限時間ギリギリまで頑張って
  • 作戦の失敗(味方未満の裏切り)
  • 主人公の知らない手段(と手遅れ)
  • 試しただけ
  • 善人ゆえに